怒り
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それはきっと、ほんのささいなことだった。彼も、寝て起きてもう一度考えてみて、そう思ったに違いない。 けど十分だった。彼がもう一度、怒りを抱えて生きるには十分な“事件”だったのだ。 そしてその日から、彼の世界は変貌した。 ごりっ、という音を覚えている。 自分の運転する車の左側から聞こえてきた、酷く耳障りで恐ろしく不快で、そしてどうしようもなく現実を突きつけてくるその音を、覚えている。 慌てて道の脇に停車し、車から降りて確認してみる。赤い線。愛車の30mほど後ろから左の車輪にそって続いている。赤い線。線の始点にはダンボールがあった。これも赤い。 最初、珍しいダンボールだな、と思った。ペンキでも中に入っていたのか。そんなことを考えて…… 一瞬後、背中からせり上がる異様な焦燥感と不快感に、その事実を気付かされた。 ダンボールに近づく。 赤いダンボール。赤く染まったダンボール。「青森りんご」なんて表示があるのが、いかにもそのまんまで、失笑する。覗き込む。赤い。どろどろ。ぐちゃぐちゃ。毛。赤い。むしろ黒い。どろどろ。ぐちゃぐちゃ。頭。小さな頭。小さな耳。赤黒い液体に染まった、毛。血に染まった、猫の頭。原形を留めない小さな体。 俺が車を運転していた。鈍い音が聞こえた。車の方に振り返る。赤い線。血の線…… ――俺が、ひき殺した。 「っ!」 地面を思いっきり踏みつける。地団駄を踏む。踏む。どうしようもない怒りがあった。 なんで……なんでなんでなんでなんで! なんでこんな道の中途半端な位置に猫なんて捨てているのか。なんで猫もとっとと箱から逃げなかったのか。なんで俺の車が猫の血で汚されなきゃいけないのか。なんで飼うことができないなら保健所でもなんでも連れて行くなりしないのか。 堂々巡りする思考。もう起こってしまったこと、俺の手の届く範囲にないこと、そんなどうしようもないことに対する怒り。 …………。 ひとしきり行き場のない怒りと思考に足を止めていたが、俺も急いでいた。仕事がある。 俺は最後に自分の車の車輪を確認して、また一言毒づいてから、車に乗り込み先を急いだ。 猫の死体はそのまま放置して。 これが、きっかけ。 この体験のあと、彼はこう結論する。 「猫ごときひき殺したところで罪にはならない。もとから気にしなければあんなムカつくこともなかったんだ」 以後彼は怒りを抱いて生きるようになった。いつ自分の力ではどうしようもない事態に見舞われても、それで怒りを覚えることのないように、常に怒りを抱くようになった。 しかし、彼の人生そのものに大した変化はなかった。仕事先では仕事用の性格を用いるなど、必要なときに必要な顔を作った。犯罪も犯さなかった。彼は至極真っ当な人間として、それなりに長生きしてこの世を去った。 彼の葬式には、親族とほんのわずかな友人だけが参列した。 ▼あとがき▼ 人生の転機とかよく言うけど、そんな傍目で分かるほどガラっと変わるもんでしょうかね? それよか、この主人公みたいに、内面だけ変わって、ほかは何も変わらなくて、じわじわと影響を与えていくような転機の方が多い気が。 方向がマイナスなのは単に俺の好みと気分の問題。 |
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