おっさんの料理
親父の味ってのがあってもいいじゃない






「ただいま」
 誰もいない部屋にいつもどおり虚しい帰りの挨拶を響かせながら、俺はアパートのドアを開けた。その先にあるのは、いつもどおりの真っ暗な空間。誰もいない部屋。
 だがその日は違っていた。
「おう、おかえり」
 入ってすぐのキッチンで、ホームレスの格好をした……というか、そのまんまホームレスのおっさんが料理を作っていた。鍋の中のものを味見して、「……よし」などとも言っている。
 とりあえず外に戻ってドアを閉める。
 左右と部屋の番号を確認し、ここが間違いなく自分の部屋だと分かる。そして自分にホームレスになって勝手に部屋に入ってくる知り合いがいないか検討する……いない。いないはずだ。いや、そういえば高校の同級のあいつはこの前勤めている会社が倒産したと聞いた。
 俺はもう一度部屋の中に入った。
「何してる。早く入れ」
 ホームレスがなぜか我が物顔でそんなことを言ってくるが、無視して聞いてみた。
「えーっと、鈴村?」
「誰だそれは」
 違ったらしい。
「あ、じゃあいいです」
 外に戻る。
 よし、警察だ。
 俺は携帯を取り出すと110番をコールしようとした。
 次の瞬間、がん、という大きな音とともに俺の体は前に放り出された。鼻のあたりに強く殴られたときなどに感じる独特の臭い――衝撃臭とでもいうのだろうか。火薬のようなあの臭いがした。
「おい、早く入れ」
 おっさんが出てきていた。となると、さっきの衝撃はおっさんがあけたドアに頭でもぶつけたか。思い出したように後頭部がじんじんと痛む。
 痛みを無視して立ち上がると、俺はとりあえず穏便にことを済ませてみることにした。
 親指を自分に向け、そのあと人差し指で部屋の中を指差しながら、「入る」と言う。
 その人差し指で今度はおっさんを指差すと、「帰る」と言って親指は家の外に向けた。
 ひとつひとつの動作をゆっくり、噛んで含めるようにすると、「オーケー?」と聞いてみる。それでおっさんも合点がいったらしく、鷹揚に頷いて親指を立てて「オーケー!」と元気よく答えた。
 俺はその答えに満足しつつ、どこかこの後のオチを予感しながら部屋に入った。きっとおっさんは普通に俺の後について部屋に入ってくるのだろう。
 そんなふうに諦めていたら、意外なことにおっさんは素直に帰る方向に向かっていた。だが逆にそれが気味悪く感じられる。
 ドアに鍵をかけて部屋の中を見る。入り口すぐの玄関兼キッチン、奥の六畳間と二部屋だけのアパートだ。確認は一瞥で足りる。荒らされた形跡はない。念のため、通帳なども確認してみたが、間違いなく無事だった。何もとられていない。荒らされてもいなければ、汚されてすらいない。
 ただひとつ、キッチンに残った料理だけがおっさんのいた証拠だった。火にかけっぱなしの鍋は、ちょうどいい香りをさせ始めている。……豚汁だ。
 冷蔵庫の中身が減っていないかとも思ったが、何も減ってはいなかった。というか、農家の実家ならともかく、一人暮らしの男の部屋に豚汁の材料が揃っていることはそうそうない。
 つまりあのおっさんは、自分で食材を用意して、なぜか俺の部屋で料理を作っていたわけだ。意図が掴めない。質問の意味が分かりません。なんだこれは。フラグか。危なかった。あのまま部屋に上げていたら今晩はあのおっさんとしっぽり暑い夜を過ごすことになったのだろう。残念だが俺にそういう趣味はない。
 すっきりしないまま、鍋の火を止め、ふたをする。そしてため息をつきながら、奥の六畳間に戻った。
 すると、窓のそばにおっさんが立っていた。
「よ。」
 あまつさえ、気軽に挨拶などひとつ。
 ドアの鍵はかけていたはずだ。本格的に気味が悪くなってきた。
「てめえなんで入って来れんだよ!」
「おう、窓から入ったんだ。それはそうと」
 おっさんは俺の前まで来ると、すぱん、といい音を立てて俺の頭を叩いた。
「親に『てめえ』たぁどういう了見だ」
 親? 何を言っているんだろう、このおっさんは。そうか痴呆か。ボケているのだろう。それで自分の子供と俺を間違えているんだ。だって俺の父親は……
「おっさん、悪いけどな。俺の親父、俺がガキの頃に死んでんだよ」
 物心つく前のことなので、俺は覚えていない。ただ母さんに――
「そう言われたか?」
「…………。」
 おっさんの自信たっぷりの顔に、思わず絶句する。まさか本当にこの小汚いおっさんが俺の父親なんてことはないだろうな、と少し本気で考えてしまう。
 おっさんはふん、と鼻で笑うと、キッチンの方に歩き出した。それでようやく我に返り、俺はおっさんに向けて怒鳴った。
「そんなんで誤魔化せると思ってんのか!? 早く出て行けよ!!」
 凄みを効かせた声にもおっさんは動じない。火を止めた豚汁の鍋を開け、中身を味見している。そして満足げに頷いたかと思うと、勝手に戸棚からお椀を取り出すと、それに豚汁をよそった。
「食え」
 言って、お椀を俺に差し出してくる。
 俺はよっぽどそのお椀を叩き落してやろうかとも思ったが、掃除が面倒なのでとりあえずは受け取った。そして手元の棚に置こうとすると、おっさんが箸を渡してきた。
「ん。」
 おっさんはいつの間にか自分の分もついでいる。
 なんとなく気勢をそがれて素直に箸を受け取る。おっさんはにやりと笑うと自分の分をがつがつと食べ始めた。……うまそうだ。
 あまりにおいしそうに食べるおっさんの姿に、俺は自分の手の中にある豚汁に興味をそそられていた。そんなにおいしいのか。いや、こんな小汚いおっさんの作った料理がまともなはずはない。だがさっきからこのお椀の中の豚肉やサツマイモやごぼう、ニンジンは食べてくれと言わんばかりに食欲をそそる香りを発している。そうだ。俺はおっさんを信用するのではない。ダイコンのお誘いをお断りするなんて無粋なことができないだけだ――
 自分の中でいろいろと折り合いをつけて、俺はついに箸を豚汁へ進め、そして、一口、その汁をすすった。
 次の瞬間、俺の脳裏に広がった光景を、俺は一生涯忘れることはないだろう。
 田舎のあぜ道、手を繋いで歩く親子。必死に父親と同じ身の丈になろうと背伸びする子供、子供相手にムキになる父親。蓮華の花の咲く田んぼ、その中を家に帰る子供達。
 断片的なイメージが浮かんだあと、最後に散歩をしていた親子の父親の方の顔が見える。
 その微笑んだ顔に、本能的に悟る。
 ああ、この人が俺の――
 ほんの少しの間記憶旅行した後、俺は豚汁を食べる手の動きを再開した。泣いてなんかいない。目頭が熱くなんかない。そう自分に言い聞かせるように、貪り食う。
 ただただ、おいしかった。一人暮らしの人間にこういう家庭の味的なものは反則だ。この料理はいわゆる男の料理だった。繊細さの欠片もない。肉は大きいスライスのまま入っているし、野菜の皮は残っている。だがそれが逆にこの料理の味を出しているのだろう。懐かしい味だ。
 お椀に落としていた視線を少し上げ、おっさんの様子を窺う。おっさんは豚汁を食べてしまっていて、俺のほうを嬉しそうに見ていた。……その笑顔が、さっき見た幻想の父親と被る。
「なぁ、あんた――」
 本当に俺の父親なのか? そう尋ねる前に、おっさんはまた俺の頭を叩いていた。
「親に向かって『あんた』ってのもいただけねえな」
 だって仕方がないじゃないか。どう呼べばいいか分からないんだ。まさか「父さん」なんて呼べるはずもない。俺はあなたのことを覚えていなかったんだ――
 そんなことを考えていると、頬を何かが伝っていった。豚汁を食べている間ずっと我慢していた温かい雫が、溶けて出たように瞳からこぼれたのだ。一度こぼれてしまえば、あとはもう歯止めが効かない。俺は子どもの頃のようにしゃくりあげながら涙をぽろぽろこぼし始めた。
 するとまた小気味のいい音。頭を下に揺さぶる衝撃。おっさんが俺の頭を叩いていた。
「いてぇな、さっきから!」
 思わず涙声で怒鳴る。初めて間近で正面から見たおっさんは、信じられないほど優しい瞳で俺を見つめていた。
「男が簡単に泣くんじゃねえ」
 そう叱る口調もどこか穏やかだ。
 俺は慌てて涙を拭いた。今まで何をやっていたのか、なぜそんな格好で俺の前に現れたのか、聞きたいことは山ほどある。それを聞くためにも、対等の立場、男と男として話さなければならないのだ。
 だけど、本当はそんなことはどうでもよくて、俺はただ、自分の記憶では初めて会う父さんに失望されたくなかっただけなのかもしれない。
 ひとしきり涙をぬぐい、落ち着いてきたところで俺は父さんに質問した。
「今まで何やってたんだよ? しかも急に現れて……」
「それは……いや、待て。客だ」
 父さんがそう言った瞬間、インターホンを鳴らす音がした。俺は急いで立ち上がると、玄関のドアを開けた。新聞の勧誘だったら怒鳴り帰してやる。
 ドアの向こうに立っていたのは、買い物袋を提げた母さんだった。
「やっほー、元気にしてる?」
 たまに母さんはこうやって連絡もなしに様子を見に来る。今日も様子を見るついでに夕食を作るつもりで来たのだろう。だけど、今はそんな場合じゃない!
「母さん! 父さんが!」
「倒産? どこが?」
 ああ、もう、この親はいつも話がかみ合わない!
「倒産じゃなくて、父さん! 父親! 俺の! 母さんの旦那さん!」
「ああ……それがどうしたのよ? もう死んじゃった人のことなんて……」
「それ、嘘なんでしょ!?」
 俺が断定すると、母さんは目を大きく見開いて硬直した。
「父さんは死んでなんかいない。そうだよね?」
「あ、あんた、どこでそんな話を……」
 目が泳いでいる。俺はそんな母さんの肩を掴むと、
「父さんからだよ! 今、うちに来てるんだ! ほら!」
 言って奥を見せる。そこでは、座ったままの父さんが静かにこっちを見ていた。
「あ……」
 母さんの口から音が漏れる。
 父さんはゆっくりと立ち上がり、母さんの前に来る。
 その目は俺に向けたときよりも穏やかだ。
 ああ、俺はこの瞬間を一生忘れないだろう。家族がまたひとつになった瞬間。父さんの顔なんて覚えていなかった俺に、父親を感じさせてくれた父さんの豚汁と、母さんと父さんの再会。このアパートを出て実家で家族三人で暮らすのもいいかもしれない。
 生まれて初めての家族全員が一緒の生活が、これから始まるのだ。
 父さんは母さんの前に来ると、穏やかに微笑んだ。
「……ただいま」
 母さんもそれに応える。
「……だれ?」
 …………。
 え?
「いや誰って……父さんでしょ?」
「誰の?」
「いや、俺の」
「あんたの父さんなら、関東獄彩会で若頭やってるわよ」
 …………え? うそ、俺の親父、ヤーさん?
「んじゃ、この人は?」
 おっさんを指して尋ねる。
「知らないわよ。あんたの友達じゃないの?」
 言外に、友達は選びなさいよね、ということを伝える口調で母は言った。
 え、じゃあ何? このおっさん、マジでただの他人? 俺涙流しちゃったよ? すげえ泣いたよ? え、うそ、なんで?
「て、めえぇぇぇぇぇっっっ!!」
 俺は叫びとともにおっさんを叩き出した。おっさんはきれいに母さんの横を前方宙返りするような格好で外に飛んでいった。すぐさまドアを閉める。そして110番。
 とんだ恥をかいた。赤の他人を父さんと勘違いしてぬか喜びするなんて。あのおっさんは許さん。ただ、おっさんの残していった豚汁だけは、母さんと一緒に食べさせてもらったのだった。







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